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検査室支援情報

精度管理の考え方中 恵一

統計的な問題についてのメモ(5~9)

5)

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『帰納的推理は、本質的に新しい知識をこの世界にもたらせる方法として、我々の知る唯一のものである。その妥当性に関する正しい条件を明確にすることは、究極において実験科学が提供すると期待すべき、人類の知的発展に対する貢献に類するものである。人類はつねに"経験によって学ぶ"というある種の知的過程をとることができた。明らかに、この経験の基礎はときには非常に不完全であった。それを解釈する際に用いられた推論の過程も、非常に不確実なものであった。しかし、これらの過程の中には、新しい知識が漸次に生成されて行く、一種の知識の芽生えがあったに違いない。実験上の観測は、あらかじめ注意深く計画され、新しい知識の確かな基礎を作るために企てられた経験にほかならない。すなわち、この経験は、すでに得られた知識体系に系統的に結びつくものであり、その結果は慎重に観測し、そして正確に記録するのである。実験の技術が進歩するに従って、この立案や計画がその目的を達するための原理を明確にしなければならない。

この点に関して同時に思い起こすべきことは、演繹的推理の原理と方法でさえ、人類の文明が開花繁栄した後も、数千年にわたっておそらく知られていなかったであろうということである。我々は現在幾何学が学校で広く教えられているという理由だけから、演繹的推理の原理に関する知識は、受け入れられているものと考える。学校で教えている方法と内容とは、本質的には紀元前3世紀のEuclidの教科書と同じであって、正確な演繹議論の要求に習熟していなければ、誰でもその教材について少しも先に進むことができない。公理を仮定すれば、その論理的結論の体系が、系統的にしかも明確に築き上げられていく。それにしても、その特殊な学科がギリシャの大学で流行して、後になって中等教育の過程に取り入れられたのは、歴史的に見れば確かに一種の偶然であった。人間の思考の自由がどれほどこの幸運な事情のおかげになってきたかということは、いくら誇張しても言いすぎにはならないであろう。Euclidの時代以後非常に長い間、法則や道徳、そして歴史上の問題において、自由な個人的判断の権利を否定することが成功してきた。しかしそれにもかかわらず、その間においても、その権利は単なる演繹的推理に関する限り、外見上街のない数学的研究という庇護の中で命脈を保ってきたのである。

しかしながら、定められた断定的な論拠の体系から結論を導くことだけが自由であって、直接の観測によってのみ与えられる。疑う余地のない真理へ近づくことが許されない限りは、人間の知性の自由は不完全なものに留まらざるをえない。それゆえ実験科学の発展は、人間の技術的能力を増加させる以上のことをしてきたのである。』 *6

『"自然に関する知識の進歩"の中では、すなわち、経験ないしは計画された一連の実験から学ぶときには、結論はつねに暫定的なものであって、それまでに得られた証拠を解釈してそれを一体化した経過報告という性格のものである。5%、2%、または1%という慣行上の有意水準を用いて、仮説が矛盾するという注釈をつけるのが便利であるとしても、帰納的推論において、その証拠が実際に到達している正確な強度を見おとしたり、その後の試行によって、それがさらに強くも弱くもなりうることを無視したりしてよい、ということには決してならないのである。受け入れ手続きの分野では状況はまったく異なっていて、そこでは差し戻しのできない行動をとらざるを得ないであろうし、またどの決定が下されるにしても、その証拠の強弱はまったく問題にされない。必要なものは行動の規則だけであって、これを自動的に適用して、何の考慮も払うことなく、個々の決定をそれに任せるのである。その手続き全体は、誤った決定や不必要な検査による損失を最小にすることによって与えられるもので、このような手続きをうまく構成するには、そういう誤った決定に基づく出費を、あらかじめ算出しなければならない。また同様に、供給される材料についての予測される分布に関して、先験的な知識が必要とされる。純粋な研究の分野では、誤った結論による出費とか、いっそう正確な結論に達するのが遅れることによる出費の評価は、考えられるところでは、見せかけ以上のものではありえないし、またこのような評価はいずれにしても、科学上の証拠の状態を判断する上では、承認しがたくまた不適切なものである。その上、正確に算定しうる先験的な情報は、ふつうは欠けていることがわかっている。有意性検定が"行動の規則"として述べられているときには、つねにこのような論理的な状況の相違に留意しなければならない。有意性検定が初めに実際に展開されたのとは異なった論理的機構の中でその解釈を形式化しようとする企てによって、多くの混乱が生じてきたことは確かである。』 *7

*6 R.A.フィッシャー(遠藤健児・鍋谷清治共訳)、「実験計画法」、森北出版、1971年、p6-7

*7 R.A.フィッシャー(遠藤健児・鍋谷清治共訳)、「実験計画法」、森北出版、1971年、p21-22

6)

『今世紀の初めロンドンの郊外の1農事試験場にいた1農学者ロナルド・A.フィッシャーは、自分の受け持っていた農場試験を通して、ピアソン流の統計学の要請に悩んでいた。その農場は大地主の経営するものだそうで、さぞかし広いものと思われるが、それでも小麦の品質、肥料の質と量のいろいろの組み合わせの中から、最良のものを選び出すには、「全数」ということはおよそ縁遠い資料しか得られないからである。良心的な判定をしようと思って「多数」を集めようとすると、質的に異なるものまで一緒にしなければならないからである。そこでフィッシャーは限られた資料-標本というが、この資料から母集団の性質を知ることが科学の世界では本質的なことだと考えるにいたったものと思われる。フィッシャーの考えは次第に発展して行って、現在に至っているが、その特色は現実に調べられるのは標本であるが、知りたいのは標本そのものの知識ではなくて、標本を媒体とする、その標本の属する母集団であるところにある。

この確率論的な考えが推計学の中心になる。これは函数的なニュートン力学が確率論的な量子力学に転化したのとまったく並行しており、この際確率論自身がソ連学士院会員コルモゴロフに依って、初めて矛盾のない完全なものに改められていることを付け加えておく必要がある。この思想に従えば、全数検査の代表例といわれる国勢調査も、仮に理想通り完全に行われたとしても、時間的に移り変わる人口現象の時間的な1断面を全部調べたに過ぎず、その意味では1つの標本の全体を調べたに過ぎないと考える。この標本を手がかりに過程を掴まえようとする考えは、静観的な統計学ではでてこないことである。

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この思想に従えば母集団を調べつくして得た結果は、法則性追及の目的と矛盾することになる。法則というのは、時間的に、また空間的に異なった部分に応用できて始めて役立つものである。すなわち未だ応用されていない部分があるからこそ、言い換えると標本から得た知識であるからこそ、応用されて役立つので、母集団を調べつくして得た法則は、それ自身を含むもっと大きな母域の1部分と考えない限り、それ自身では死んでいる。』 *8

* 増山元三郎、「推計学の話」、朝日新聞社、1949年、p6-7

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『最近の品質管理で特に問題になることは、いわゆる"統計的管理状態"の達成という品質管理の目標である。これはシューハートによって特に重視された概念であって、この点にこそ彼が品質管理と統計学の関連をどう考えていたかという基本的態度がうかがわれるのである。なるほど、日本の品質管理技術者の中にはこのような状態の達成ということをさして重視せずに、統計的手法の適用という点に実用性を認めている立場の人も多いので、そういう実情を省みることも大事ではあるが、シューハートが何故統計的管理状態の達成ということを評価したかという彼の立場の紹介も歴史をかえりみる上では必要であろう。彼はいう、「・・・たとえば、われわれが利用できる科学上および工学上の文献にはゲージ、測定器および種々の形の機械的方法による"品質の管理"を論じた多くの論文がみられる。こういった文献の多くは、近年になって管理の実際的操作に、たとえば管理図といったような統計学的手法の使用がしばしばみられるようになってきているとはいえ、統計学の応用についてはなんら言及していない。より一般的な意味での管理操作を、統計的管理状態を達成するために統計的手法を用いる管理操作と区別するために、後者を統計的管理操作として考えるのが通例である。管理操作を統計的管理操作に転化せしめるところのものは、それがただ単に統計的手法を使用するという点だけにあるのではなくて、ここで統計的管理状態として特徴づけられている目標を達成するひとつの手段となるような統計的手法を使用することにある」

シューハートに従えば管理操作は次のように分類されることになるであろう。

a. 一般的な管理操作、統計的管理状態の達成を必ずしも意識していない。この場合統計的手法を利用する場合はありうる。

b. 統計的管理操作、統計的管理状態を達成するひとつの手段となるような統計的手法を使用する管理操作。

したがって、シューハートでは統計的管理状態の達成が統計的品質管理の大きな目標になっていることが判る。さて、統計的管理状態の意義についてデミング博士はつぎのように説明している。「およそ推理というものは、それがいやしくも科学という名に値するものであるなら、将来の試料に関して予測を構成するような性質のものでなければならない。もし、推理が純粋に統計量の分布理論の助けのみをかりてなされるべきものであるとするならば、推理のために証拠を提供する実験は、統計的管理の状態から生じたものでなければならない。そのような状態が達成されるまでは、正規型にしろ、その他の型にしろ、母集団(ユニバース)というようなものは存在しないのである。そして統計量の計算は、ただそれだけでは妄想とまではいかないにしても幻影にとらわれているものといえよう。事実、分布理論が管理の欠如しているために適用できないときには、どのような推理にしろ、それが統計的なものであれ、その他のものであれ、それは憶測の域を出ないものである。したがって統計的管理状態は、すべての実験遂行の最終目標なのである。」このデミングの、推理についての見解は、一般的に考えれば確率論的形式主義のワクにとらわれすぎたものと受け取れようが、品質管理における統計的管理状態の達成の意義を強調する意味では、注目に値するであろう。

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一般的にいって、数理統計学における母集団と標本の関係をとりあつかう議論では、母集団から標本がとり出される操作が無作為的で確率的なものになっている前提を認めて統計理論を展開しているわけであるが、品質管理では製造の過程で具体的に得られる仕切(ロット)と、もとの製造工程の間に果たしてこのような"無作為性"の前提そのものが認められるかどうかの判定が問題になってくるのである。仕切から試料を抽出する操作 -いわゆるサンプリングの技術- に無作為性を導入することは比較的容易で、このような仕切と試料をつなぐ関係に母集団と標本という確率的形式を前提として数理統計理論を適用してゆくことはそれほど問題とはならないが、仕切の供給源であるもとの製造工程と仕切とをつなぐ関係には複雑な因果関係が存在して、簡単に母集団と標本という数理統計学形式のワクに閉じ込めて議論をしてゆくというわけにはいかないのである。』 *9

*9 坂元平八、「統計的管理状態と母集団概念について」
内藤勝・増山元三郎・森口繁一共編、「統計学へのいざない」、東京大学出版会、1959年、p107-109

8)

『"生体のような複雑したものに抽象化して作り上げられた数学を用いるのは以ての外だ"と信じて居る人達がある。これ等の人達は摩擦や変形を無視して作られた力学が数学的に取り扱われ立派に成功して居ることを敢えて認めないのではなかろうか。認めるには認めるが生体では物理学的条件を精密化できないのではないかと反駁されるかもしれない。精密化できなければできない程一層定量的な客観的な推測の科学が必要である。測ることが既に数学的なことである以上、その取り扱い方が数学的になるのは当たり前ではなかろうか。このことは勿論推計学が実用上の見地から見て完璧なものだと云うのではない。併し現在ある方法の中で最も優れていると云う意味で一応これに従い検定しようのない素性の知れない不確かな方法は避け、足りないところは次第に補って、一層優れたものへとこれを守り育てるのが正しい行き方かと思われる。このことは現代治療学が完全でないからと云って得体の知れない民間療法を行う方がよいと云えないのと全く同じである。抽象性と具体性、個別性と一般性、偶然性と必然性等の対立概念については唯物弁証法の書物を参照されたい。実践を通じてこの関係を理解しないで推計学を有効に使いこなすことは困難であろう。 (・・・中略・・・)

又こう云う人達もある。"臨床医学では個人を治療するのである。平均がどうであろうと、患者当人が生きるか死ぬかが問題なのである"と。ところで問題の患者の治療方針又は予後は何を基にして決められるのであろうか。従来の資料から得られた種々の推計学的法則ではないか。この様な場合の統合も亦一つの推計学的概念であることは前に述べた通りである。

"少数例での研究では、資料として偏ったものが選られはしまいか、との不安を感じる"人達があるかも知れない。併しこの不安は、母集団の型の想定に誤りがなく、標本が無作為に得られた標本である限り、謂れのないものである。標本の大きさによって変わる推論の尤もらしさの変化は、自由度の概念の中に巧みに織り込まれているのである。従って費用を惜しまず多数例を取り扱う場合でも少数例で先ず見当をつけることは決して無駄ではないし、多数例を集めようとすると、異質のものが混ざり込む危険のあることさえある。ならびに何例を以て小標本と定めるかに就いて一言する。本文中では大凡百を目印としたが、数学的に云えば、Nが大きいとして省略を行うならNの大きさがたとえ50でも大標本と看做すことになりこの様な近似を行わなければ、Nの大きさがたとえ十万であっても小標本と見做していることになるのである。即ちNに関する近似の有無で決まるのである。本書でN=100を目安にしたのは古い理論では多くの場合程度の大きさを零と看做しているから1に対し0.1を省略するとしたのである。』 *10

*10 増山元三郎、「少数例の纏め方と実験計画の立て方 -特に臨床医学に携わる人達の為に-」 増補改訂版、河出書房、1951年、p101-104

9)

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『抽出の確率化が積極的に確率を導入することになるわけを、偏りのある両皿天秤の例で説明しよう(母集団の大きさ N=2)。
甲、乙二つの天秤があって、甲を使えば、5g重く、乙を使えば3g軽く出るものとしよう。この+5g、-3gという値は、調整の悪いために起こっているズレであって、調整し直さない限り、何回測っても変わらない。すなわち偏りは偶然的なバラツキとは性質を異にする一定のズレであって、作業標準を守らないとき起こるものである。昔はこの偏りのことを定誤差とか系統誤差と呼んでいた。この偏りを偶発的なバラツキに転化させよう。
いま正しいgの試料を甲で測れば(+5)g、乙で測れば(-3)gという値が得られる。そこで甲を使うか乙を使うかサイコロで定めることにし、奇数の目が出れば甲、偶数の目が出れば乙を使うものとすると、実際値として現れる可能性のあるのは、

であって、ここに

サイコロを振ってしまえばの値は定まるが、振る前にはは確率的にしか定まらない。

もし天秤の数Nがもっと多くなり、どれを使うかをサイコロで定めることにすれば、はもっと多くのいろいろの値をとりうる。はある範囲中の値をとる確率が定まっているだけである。(注:+5や-3のような特定の値ではなく、範囲を考えるのは、連続型のときも同じ定義を使いたいという下心のあるせいである。) すなわちは変量である。したがって上式のYも変量になる。これに対して、+5、-3はの実現値という。

抽出の確率化の定義で大切な点は"母集団全体"から確率的に抽出するということである。推理の対象となる個体全体が目の前ですでにある場合はともかく、特定の材料から特定の仕様書にしたがって作られてくる品物を対象とする場合には、現実に検査できるのは過去から現在までに作られた品物だけであって、将来できるはずの品物を抽出することはできないのである。このような場合には、(i)現在までに作られたものは、将来できあがる品物まで含めた無限の母集団から確率的に抽出したものと"みなして"取り扱う。因果関係が必要な程度に明らかになり、確率的推理が技術上不必要になってしまう場合を除けば、このようにみなしてよいかどうかは、経験を基に、矛盾を生ずるまでやってみて試すより仕方のないことである。これが自然科学の世界で行われている根拠である。(ii)もう一つの手は、対象の構造模型を考え、模型と現実との差を偶然とみなしてよい程度に小さくすることであろう。』 *11

*11増山元三郎、「少数例のまとめ方」(改訂増補版2)、竹内書店新社、1980年、p341-343