SOLUTION
検査室支援情報
精度管理の考え方
統計的な問題についてのメモ(1~4)
臨床検査の定量分析は、生体試料中に含まれている、ある成分濃度を正しく求めることが要となっている。これには情報という立場から、一般論としてのニュース性を共有していて、情報が得られるまでの時間と情報の正確さの「積」には一つの閾値のようなものがある。すなわち早く情報を知ろうとすれば、それだけ情報の不正確さが増す。臨床検査は医療の現場で活躍するものであるから、分析の速さを強く求められるが、一方で分析結果が治療を方向付けたり、あるいは診断を決定付けたりするために、確かな情報が求められてもいる。
臨床検査領域における精度管理は、こうした矛盾を抱えながら行われる分析の品質を一定に保つために取り入れられている経営上の手法である。信頼の高い検査結果は信頼をおく医療を提供するための一環となっている。
ところで、日常の臨床検査に供される生体試料は血液や尿などの体液であって、それに含まれる成分濃度は分析結果が得られるまでは未知である。この知られていない濃度を定量した結果がどれほど正確であるか、誤差がどれほどのものであるかは、その場ではまったく知りえない。せっつく医療現場を省みず、再度、再々度分析をすれば、平均値のようなものが見えてくるかもしれない。それには分析のコストもかさみ、待機する次の分析も滞ってしまう。つまり1回きりの分析で、許容される誤差範囲内の結果を得ることが使命に含まれている。このことが、多くの臨床検査に携わる専門家を悩ませている。
今日用いられている臨床検査領域の精度管理手法は、確率論をその基本理論として土台にしているものであって、標準化された通り反復作業が繰り返されるならば、標準化された状態での誤差に納まる、と主張することにある。標準化された状態とは、よく経験し熟知した作業工程とそれに含まれるすべてのものを意味する。
今回、このメモを始めようと考えたのは、この臨床検査の品質管理に適応される「確率」というものが、理論とよばれるような何かしっかりした論争に耐えるものであるのかどうか改めて考え直してみようとしたからであり、このためにこれまで多くの人が説明しようとしたことをここに並べて整理しておきたいと希望したことにある。こうしたメモは散逸するのが宿命であるので、可能な限りこの運命に抵抗をしようと目論んでいる。
1)
「管理図法」の創始者であるシューハート(W.A.Shewhart)の言葉がある。
『私の35年以上にも及ぶ仕事は品質管理の研究ということであった。この仕事を通して私が実感したことは、測定値というものはすべて確率的なものにすぎないという事実であった。確実性というようなものは到底達成しうべくもないものである。』 *1
この重要なテキストのあとがきに、監訳者である
坂元平八が次のように書き加えていることにも着目しなければならない。
『シューハートは、数理統計学における多くの議論がその研究対象にランダムネスが成立していることを当然のように前提としてすすめられているのに対して、彼は自分のとり扱う対象が果たしてランダムなものとみなせるかどうかという数理統計学適用以前の基本的な問題を検討しているわけである。ランダムネスが成立しているか否か判らない対象に対して、ランダムネスを前提した数理統計学理論をその量的側面だけに適用して、それがランダムなものであるか否かを判定しようという問題は基本的に克服しがたい矛盾をひきおこす。シューハートは統計的管理状態について、その物的な側面と量的数学的側面をとりあげて、具体的な製造工程が統計的管理状態にあるか否かという判断の問題をこの二側面の検討によって解決すべきことを述べているが、この点は品質管理を実施するに当たって特に考慮しなければならない基本的な問題である。』 *2
*1 W.A.シューハート(坂元平八監訳)、「品質管理の基礎概念」、岩波書店、1960年、p.v「日本版への序文」書き出し部分
*2 W.A.シューハート(坂元平八監訳)、「品質管理の基礎概念」、岩波書店、1960年、p262
2)
『高校程度の教科でもっぱら演繹の理論を用いるものとしてすぐに例示できるのは幾何の証明であり、あらゆる定理を、少数の定義や公理から導き出す手続きがそれである。これは一般的な真理から特殊的な真理を導き出す論理としてとらえることができよう。この演繹の論理を固有の対象とするのが形式論理学である。また、帰納の論理を実際に用いる例には、理科や社会の教科を通じてふれる機会が少なくないと思うのだが、その論理の姿にかなりむき出しの形で接することができる教科としては、確率論を挙げることができる。確率というのは、ある仮説が経験的な証拠によって確認される度合いと解することができる。このように、演繹や帰納が数学の分野と深いかかわりをもつあたりに、これらの論理の理づめの性格がよくあらわれている。
ところで、こうした理づめの推論の特徴を煮つめてみると、それは、研究対象をまず単純な要素に分解して、もとの対象をその要素から再構成する手続きを通して、その対象を理解する、という点に帰着するのではないかと思う。単純な要素というものは、たとえば幾何の場合の公理、確率論の場合の経験的証拠などのような確実な真理(もしくは真理とみなされるもの)を指す。こうした確実な真理から出発して、演繹の論理は確実な真理を導き出し、帰納の論理は蓋然的な真理を導き出す。
ともあれ、演繹と帰納は、単純要素への分解と単純要素からの再構成の手続きを共通要素としており、この共通の手続きは、「分析」とよばれている。したがって、演繹と帰納の論理をひっくるめて、分析的な論理とよぶことができる。』 *3
*3 今西錦司著・上山春平解説、「生物の世界」、講談社、1973年、p183-184
3)
『今世紀の初頭に始まった、すべての数学を純粋に演繹的な体系に帰着できるという理論は、そのうちに、公理論的研究の発展とともに、ひどい障害にぶつかった。演繹体系の公理的基礎の無矛盾性が、その結果の信頼性にとって本質的であることは、すべての人の一致するところである。一つの矛盾を認めるような体系はすべての矛盾をも認めなければならない。つまり、いかなる命題も形式的に厳密な過程により、この体系から導くことができる、ということが形式的に証明された。したがってあい矛盾する結果の存在しないことが、体系全体にとってやかましい問題である。しかも、このような矛盾の存在しないことは、体系の公理そのものにもとづいて論証することは決してできない、ということが証明された。実際、与えられた公理より導かれる一連の定理によって、公理のある性質、しかも公理がその性質を持つならば、これらの定理そのものが導かれるようなもの、を否定することなどを考えるのはばかげている。このような定理の証明の可能性は、定理が主張することの正しさにはよらない。したがって、純粋に演繹的な体系の正しさは、たかだか、いかなる場合にも観測との対立を未だ見出されていない科学理論と同じような論理状態にある。だからそれは、十分に検討された帰納の上に固く基礎をおいているようである。
数学の公理理論は、実際の場面への適用を目的とした数学の分野では、本気に取り入れられていないようである。というのも、応用数学では、同種の科学が進歩するにつれて、新しい概念を次から次へと導入せねばならないからである。そうして、公理的な内容を持つ新しい定義は必然的に、それを内包するような公理の全体系の内部の一貫性を損なうことがある。われわれは、確率論の導入が、まさにこのような公理的波乱をまき起こすのをみた。したがって応用分野においては、数学を閉じた静的な体系に帰着させることは容易ではなく、人間の思想の発展とともに発展しなければならない。数学は人間の思想の重要な媒体なのである。
演繹過程の目的は、採用された公理の中に含まれている結果を露出し明らかにすることである。本質的に新しいものは何も発見されない。ただ全構造の統一性が有効に立証され、その無矛盾性がある程度検証される。将来これらの過程は人間よりも計算機のほうがうまくやることになるだろう。とにかく、公理というものは、その演繹的結果を予想して仕立てられる。それだからこそ現実において有効なのである。事実、演繹的論法は、帰納的推論の過程における諸段階に過ぎないことがしばしばある。たとえば、前提とするデータにもとづくベイズの定理は、厳密に演繹的である。にもかかわらず、議論の元となる事前の確率命題は、現実世界においては、公理的な基礎というよりは、帰納的、実際的基礎を持っている、ということから、ベイズの定理を帰納過程のなかに含めることができる。
逆に、経験的観察にもとづく帰納的推論の目的は、これらの観察が行われた体系についてのわれわれの理解を改善することである。この方の推論の妥当な数学的形式は、今世紀において、統計的方法を科学的データに適用することが広く行われ、実験計画法の諸原理がだんだん理解されるに連れて、明らかになってきた。乗り越えなければならなかった障害の一つは、演繹的推論においてのみ正しい伝統や先入見を帰納的思考にまでおしつけようとする傾向であった。
帰納的推論の支配的特徴は、それが常に不確定な命題に到達するために用いられるということ、異なった型、異なった段階の不確定性について厳密な表現を見出さねばならぬような論理的状況が認められるということである。確率を含む命題は、現実には、特殊な型の不確定性についての命題であるにもかかわらず、[数学的確率の理論]を厳密に演繹的な過程の中に組み込むことができると考えられた。このことが可能であるかのように思われたのは、主として多くの数学的な扱いは、現実世界への適用が避けられているために、不確定な要素が操作不可能なような、形式的抽象的取り扱いを採用していたからである。
不確定性を含むすべての推論の特徴は、これまであまりに無視されているが、次のようなものである。推論を裏付ける不確定性の性質や程度の厳密な規定には、一般に、推論の基礎となるデータをすべて、定量的なものも定性的なものも含んでいなければならない。
この論理的性格を現実的に考慮するとすぐに、数学的確率の概念がこの要求をある程度満たしていることが分かる。確率命題では、予測されたこと(それは、対象、事象、命題と考えてもよい)は同じような実在物を多数(どんなに多くてもよい)含む集合の一つであると主張される。
この集合のPという既知の割合のものはある特徴を備えており、他のものは持っていないことが知らされている。さらに、異なる割合をもつ、いかなる部分集合も認識不可能であると主張される。
したがって、もしデータのある部分によって、このような部分集合で予測された対象の属することを認識できたならば、このような認識可能な部分集合のうちの最小のものを用いて、異なった確率を主張することができる。
データを徹底的に吟味してそれ以上の部分集合を認められないとなると、予測されたことは、それが属する最終の集合のランダムな要素とみなされる。予想されたことが現れるかどうか確かめることを繰り返すサンプリングの過程を想像すると、標本で期待される割合と、集合(今の段階では、これが標本ととられる母集団である)を規定するのに用いられた最初の割合とのあいだの関係が説明できる。このようなランダム・サンプリングの過程の仮想的な極限によって、確率を定義しようとする試みが行われているが、これはあまり好ましくない。
問題にしている集合、つまり標本をとる母集団が無限集合だというと、しばしば異議が唱えられた。だが、上のような定義と、それにともなう計算は、どのような大きな有限集合にも適用できる。そうして、集合を無限に大きくしたときの、これらの結果の極限が、無限母集団からのサンプリングの結果、という言葉で表されているのである。この問題ははっきりしているにもかかわらず、ある式の要素を無限に大きくしたときの、普通の意味での数学的極限の代わりに、時間的に無限に反復されるようなある物理的過程の"極限"などを考えて混乱が生じたのであった。』 *4
*4 R.A.フィッシャー(渋谷政昭・竹内啓共訳)、「統計的方法と科学的推論」、岩波書店、1962年、p108-112
4)
『統計的推測における"確からしさ"あるいは"確率"の問題を考えるために、三つの段階を区別しなければならない。たとえばものの長さを測る場合をとると、
- 定の方式(測定の回数等)と観測値からの推定方式を定める。測定方式はいろいろの対象に繰り返し適用されるものと考えられているとする。
- 具体的な対象(このものの長さ)を測る際に、その測定方式と推定方式を定める。たとえば、ほぼ確実に0.2cm以下になるようにするにはどうしたらよいか。
- 実際に得られた観測値から、推定値を定める。また、その精度はどのくらいであるかを求める。
1の問題は、たとえば抜き取り検査の規格を定める場合に生ずる。そこでは平均的に精度がなるべく高い(あるいは一定以上の精度をもつ)推定方式が求められればよいのであるから、個々の場合は問題にならない。ここでは確率分布の計算によって、得られる推定値のうちの何%が要求を満たすことになるのかが正しく計算される。
2の問題は、一般に実験あるいは観測を行う前に考えられる問題である。この場合も推定値について確率分布を計算することができる。しかしこの場合、観測は1と違って1回しか行われない。標本数は多くても本質的には1回の観測である。したがって、たとえば誤差が0.2cm以下である確率が95%であるように計画しても実際に得られる推定値にこれ以上の誤差をもつことになってしまうかもしれない。この場合には"確率"は頻度を直接表してはいない。ここでは確率が95%であるということは、誤差は0.2cm以上になることもあり得るが、"多分"それ以下であろうということを表現するものになっている。"確率"をこのように使ってよいのか問題がある。
3の問題の場合、推定値も真の値もすでに客観的には決まってしまっている。そこに確からしさの問題を導入することができるかどうかということである。
"確率"という点だけに限っていえば、この三つの段階は次のような問題に対応させることができる。
- 歪みのないサイコロを何回も繰り返して投げるとき、たとえば1の目が出る確率が1/6であるということは、明らかに1の目が出る回数は、多数回の試行のうちには全体の1/6に近づくであろうことを意味している。
- 歪みのないサイコロを投げるとき、"今度"1の目が出る確率が1/6であると述べるとすれば、それは1の目が出ることの"確からしさ"あるいは"可能性"が1/6という大きさであることを意味している。
- 今サイコロが実際に投げられた後、それにつぼをかぶせてしまって我々が出た目を見ることができない場合、それが1の目である確率はどのように考えられるであろうか。もしそれが1/6であるとすれば、それは我々が出た目を知らないということにもとづいて1の目が出たという判断の"確からしさ"を1/6と判定するという、判定の信頼性を表す尺度を意味することになる。他方確率は客観的な対象についての可能性を表す命題であるとすれば、もう出る目は決まっているのだから確率は実際に1の目が出ていれば1、そうでなければ0で、その中間はないことになる。また我々がその目を見た人から出た目は奇数であることを知らされたとすると、確率が、一定の知識にもとづく我々の判断の信頼性の尺度であるという立場に立てば、1の目が出たことの確率は1/3になるが、それを客観的な対象に関するものとみなすならば、確率はやはり1または0に変わりがないことになる。
"出た目が1である確率が1/6である"というとき、"確率"という言葉の意味について、このような三つの段階がありうる。そうして確率の概念をどの段階まで認めるかが一つの重要な問題である。
もし確率はまったく客観的に観測可能な事象に関する、観測可能な事実を表現するものでなければならないとすれば、それは多数の繰り返しの中の、ある事象の相対頻度としてのみ意味をもつことになる。それゆえそれは1の段階のみ適用可能であり、特定の一回、"今度"の試行について確率を云々することはできないことになる。
これに対して確率を、このような相対頻度にもとづいて表現される、ある客観的な事象の出現の可能性の尺度であるとすれば、それは2の段階まで認められることになる。すなわち"今度"1の目が出る客観的な大きさは1/6であるといえることになる。しかし3の場合については、さいころが投げられてしまえば、出た目は決まってしまうから、それが生ずる可能性の尺度としての確率は意味を失うことになる。
さらにもし確率を、一定の知識あるいは情報にもとづく判断の信頼性を表すものであるとすれば、たとえばサイコロが投げられてしまった後でも、われわれがその結果を知らないならば、状況は投げる前と変わらないから、出た目が1の確率は1/6であると考えるのが合理的である。もしわれわれが出た目について何らかの情報を得て、たとえば出た目が奇数であることを知るならば判断の規準となる状況が変わり、確率はたとえば1/3になる。
このような立場は、それぞれ現在の統計学におけるいくつかの考え方のあるものを代表しているのである。確率を頻度と考える立場の代表者はフォン・ミーゼスである。彼は確率を集団現象における相対頻度の意味に限定し、さらに次のような三つの条件をつける。
- その現象は無限に繰り返しが可能である。
- 無限の繰り返しの中で、一定の事象が表れる相対頻度は極限において一定の値pに収劔する。
- この集団の中から、何らかの規則に従って無限の部分集団をえらび出すときその部分集団の中での事象の相対頻度の極限値はつねにpに一致する。
そうして彼はこのような事実が経験的に確定された対象についてのみ、確率論を適用することを主張している。したがって、ミーゼスにとっては確率論とは、規則的な構造をもたない集団現象における比率の理論にほかならない。それゆえミーゼスによると確率論の適用可能な範囲は極めて限られたものになる。
他方においては、確率も一定の命題の信頼性を表すものと考える立場がある。それをはじめて整理したのはJ.M.ケインズで、彼は確率を一定の根拠にもとづいて判定される一定の命題の信頼性の尺度と定義した。すなわちそれはわれわれが一定の知識を前提にしてある命題に対してもつ信頼性の合理的な程度を示すものである。
たとえば、"ある貨幣を投げるとき表が出る確率が1/2"ということは、ミーゼスの意味では、その貨幣を非常に多数回投げて、表が出る割合が1/2でかつその出方がまったく無規則的であることが、経験的に確定されていることを意味している。ケインズによればそれは"表も裏もまったく同じように見えるので、表が出ることも裏が出ることもまったく同様に確からしいと判断するのが合理的である"ということを意味している。ケインズの意味での確率は一定の根拠にもとづくものであるから、新たな証拠たとえば10回投げて実際10回とも表が出たということになれば、そのときにはもう表が出る確率は1/2には判定されないことになるであろう。』 *5
*5 R.A.フィッシャー(渋谷政昭・竹内啓共訳、解説)、「統計的方法と科学的推論」、岩波書店、1962年、p206-209